昭和42年06月12日 夜の御理解
信心をさせて頂く一番の願いでなくてはならんのは、いつでも、どこでも、どんな場合でも安心しておれれると言う境地を開くことである。どんな場合でも慌てんで済む、驚かんで済む、安心しておれれると言う境地を開いて行く。そういうおかげを頂く、おかげを持っての最大のおかげだと思う。また、そういう間違いのない願いを持っての信心でなからなきゃならん。
「どうぞ億万長者になりますように」「どうぞ健康になりますように」と。まあ是を願っても悪いのじゃないけれども、それをその間違った間違っていない願いとは言えない。ね。信心も所謂神様の「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と言うのは、いつどんな場合でも安心しておれる。そういう気持ちを開いてくれよと言うのである。今日何時頃だっただろうか、11時頃だっただろうか。
丁度福岡の高橋さんがお参りしてお届けが終わった後であった。福岡から電話が掛って来た。それで高橋さんのお宅から電話がかかって来た。かけて来たのは徳久さん徳ちゃん。こちらもそちらに大将が見えとります。ならまあ大将に帰りにその返事をしてあげて下さいと言う電話であった。それは今朝そのまざまざと、もう確かに御神夢であったに違いない。親先生をお夢の中に交えての様々な事をお夢の中で頂いておる。
その事を神様がちょうどお伺いをさして頂いたら、どうでもその「いつでも、どんな場合でも安心しておれれる為の、信心修行をしなければならない」ということであった。そんならどう言う様な信心をさして頂いたら、その安心のおかげを頂けるかということを、はっきり教祖様は、こういうふうに教えておられる。例えば徳久さんであるならば、ね、自分の勤めておる「三福」と言うお寿司屋さんのこと。ね。
それから自分の家のこといわゆる自分のこと。そして自分の御縁を頂いておる合楽のお広前、そのこと。その三つの繁盛を願わしてもらう。「三福」のこと、ね、お店のこと、自分の家のこと合楽のお広前のこと。この三つが等分しての祈りになれた時に、神様は許されるのが安心のおかげだと言う意味の事を頂いておる。ね。信心をさしてもらうからには、やはり、お店のことを祈らん者はなかろう。
お話を頂けば頂くほど、自分の勤めておる店のこと、一生懸命やはり祈っておるんだけれど、そんなら、自分自身の家のよう、自分自身のことのようにはない。ましてや、自分の御縁を頂いておるお広前のことなんかのことは、その、誰でも、御縁を頂いておるお広前が、繁盛し、ごひれいが輝く事を願っておるけれども、その為に、願っておるからと言うて、それだけの信心をしておるわけでもない。ね。
ここんところがですね、まだ他にいろいろございましょうけれども、まあ簡単に言うて、せめてそこんところが、3等分して、ね、一様に祈れれるようになる。自分のことお店のこと。これは私は、お店の事に打ち込んだら、祈れれるようになると思うね、ほんとにお店に打ち込んだら。お店の繁盛が祈れれる。ね。自分のことは祈らんでも、もう祈らんでも祈っておる事と同じ事である。
ましてや、お広前の繁盛ということにおいては、なおさらのこと。ね。ですから、自分達の祈りの内容と言うものを検討してみて、「ああ、これではまだ安心は頂けんな」と。安心のおかげ頂けんなということを思うて、そこんところ、一生懸命稽古さして頂かなければならん。ただ今公ちゃんが今朝からお夢を頂いたと言う、「三匹の蛇」と言うお知らせを頂いた。ほほう、私それを頂いてから、そう思うたんです。
なるほど、今日徳ちゃんが頂かれたように、例えば、自分のこと人のこと、ね、またはお広前のことと。なら、一様の力で、3等分に祈れれるようになるということ。もちろんその為には、私は、祈った願ったと言うだけではいけない。例えばなら、お広前のこと祈るとする。そうすると、お広前にはお広前のめぐりがある。徳久さんで言うならば、三福寿司なら三福寿司のことを祈ったとする。
そこには、三福寿司のお店に対するところのめぐりがある。そんならその巡りがあってはまあ三福のこと、いくら願っておってもおかげを受けられんのであるから、三福のめぐりがあるならば、そのめぐりのお取り払いの頂けれる、いわばめぐりに、その三福に、まあいうならば、天地に対する借金があるならば、それを自分が少しでも払わして頂こう、と言うような修行をさせて頂いて始めて。
「三福の祈り」と言うことになってくるんだということ。私それを頂いてから、信心と言うのは、その実にデリケートなものだなと思った。例えばんなら難儀な人そこにある。だから、その人の事一心に願う。願うからにはです、その人の持っておるめぐりと言うものを、自分が身にいくらでも引き受けてやる、と言うくらいの熱意がなかったなら、祈ってやっておるということじゃならん。口で言うとるだけじゃない。
なるほど、取次ぎ者などというものは、力無しじゃできることじゃないなと思うのです。めぐりを自分の身に受けて、よく言われておりますですね、あの、久留米の教会だって、甘木の教会だって。どうして教会内に、ああ言う不幸な事が続くか。甘木だって、初代のおられる時分から、非常にその、家庭内に難儀が続いた。と言うのは、親先生があまりにもたくさんの者の、めぐりをからっておられるから。
ああいうふうなんだということを聞いた事があるけれど、けどもまあ公ちゃんそのお知らせを頂いてから、徳久さんのその、頂いておられるその事と、合わせて考えてみて、なるほどそうだな、と私は改めて思うんです。ね。「はあ、気の毒な事じゃ、どうぞあの人がおかげ頂きますように」とこう、心から祈らなければおられない。それは神心。けどその祈っただけでは、等分ということじゃない。
そこで祈るからには、その人の持っておるめぐりを自分も少しはかろうてあげる、と言うぐらいな、神心と言うものがなからなければ、祈り、祈る、祈った事にならんのじゃということ。ね。ですからほんとに、信心さしてもらって徳を受け、安心のおかげを頂きたいと願うならば、そこんところを勇んだ心で、喜びの心を持って、例えめぐりを自分がひっかろうても、そのめぐりに負けるような事のないだけの。
迫力の信心をさしてもらわなければならないな、ということが分かるです。ただ自分が「ああありますように、こうありますように」と願うだけではなくて、自分のこと、人のこと、そして自分の御縁を頂いておるお広前のこと。これが等分して祈れれるようになったら、安心のおかげを受けられるとこう、安心が与えられるわけなんです。ね。また安心を受けると言う意味じゃ、他にもいろいろございます。
けども、その事を頂いてから、まず、なるほど、人のことが実感を持って、神心を持って、親切の心を持って祈れれるようにならなければならないな。御縁を頂いておるお広前が大繁盛のおかげを頂けば、その大繁盛の中に、自分の家もあるのだという思いでです、祈らなければならないなと。祈るからには、お広前にはお広前に、人には人に、自分の家には家にです、めぐりがある。
そのめぐりのお取り払いの、御用の上にもです、修行の上にも、その修行がなされなければならない、ということを。大体ほんとにこう、その、公ちゃんのその今朝からのお夢と、徳久さんの今朝からのお夢と合わせてみてです、ほんとに、なるほどなるほど、と合点する事があるのです。ね。そういう信心をさして、ただ人のことを願うだけ、なら、例えば、天下国家のことでも、祈るだけなら祈れます。
「どうぞ世界真の平和」「どうぞ世界人類の身の上安全」「どうぞ久留米市上の繁盛」「どうぞ合楽部落の、皆さんの一人一人の上に」と言うて、祈るだけなら誰でも祈れます。けどもその、祈ったが祈ったにならない。ね。大きな信心ということが言われる。ほんとに、自分の心が豊かに大きくなるということなんです。どのような事が起こっても、自分の心の中にそれを治めていけれるだけの、大きな信心なんです。
けれども今日の御理解頂きよると、その大きな信心とはそれもそうだけれどもです、大きな信心とは段々自分の信心が。実質的に祈れば祈るだけおかげになって行く、と言うような祈りでなからなければいけない。例えばここにブドウの木を植える。ね。いわば一軒真四角にこう根を張り葉を張った。ね。その一軒真四角にしか葉がしこっていないのに二軒先のこと祈るなら、そこに実が実るはずがないでしょうが。
したらその三軒も先のことを祈っとったって、そこにブドウが実るはずがないでしょうが。ね。その芽が次第に伸びて行く。そして一軒真四角二軒真四角、二軒真四角三軒真四角にと、段々段々そのブドウが広がって行って、そこから花が咲きそこから実が実って行く、来るようなおかげでなからなければならない。これが広がって行くことが段々段々、大きな信心になって行くということなんだ。
まあそれ、今晩その事を、これは私が今晩頂いた、お知らせなんだけれども。そういうお知らせを頂いてみてです、なるほど信心とは、そう言う様なものだな、ということを考える。ね。どうでも皆さん自分だけのことじゃない、誰かのこと、祈れれるようにならなならん。その誰の彼のことならば、祈るからには、その人の持っておるめぐりでも、自分が手伝わしてもらう。
持たしてもらうと言うくらいな、神心がなかったら、祈ったが祈ったにならない。しかもそれが、自分のこと、お広前のこと、そして人のこと、これが3等分にして、一様な祈りの力を持って、祈れれるようになる時にです、安心というものが許される。安心の祈りを受けられる。ただ、大きな事ばかり祈っては、天下国家の事祈っておっても、それは、ブドウの木に、が一軒真四角のものであるとするならばです。
もう二軒も三軒も五軒も向こうの事祈っておるようなもので、これは、空頼みのようなものである。私はほんとにその事を祈り、その辺の事を皆がほんとに分からなければいけないな。いかに麗々しく、天下国家の事祈っても、世界真の平和を祈っても、世界総人類の事を祈っても。その点、私は、そういう事を祈れれたのはやはり、あの三代金光様で、お一人ではなかっただろうかと私は思うのですね。
金光様あなたはどういう事を祈られますか、世界真の平和を祈ります。世界総人類の立ち行きを願うとこういうふうに、ある方に答えられた時にそれはあまりもの祈り、あまりもの事だとその人が言うた時にです「大は小をかなえますから」と仰ったと言う。ただ空々しい願いじゃなかった。世界の事を祈られるからにはです、世界総人類の例えばなら巡りを自分の双肩に担がれるだけの、私は熱意と修行精神を持ってです。
祈られた願われたに違いはない、と言う事なんです。だからこそ「大は小をかなえる」と言う様な素晴らしいお答えになって出て来たんだとこう思う。お互い信心を進めさせて頂くのであるから、今日頂いた御理解をです、ほんとにもうちっと研究しもっとほんとに分からしてもらい。それを日々の生活の上にも祈りの生活の上にです、現して行けれるようになったら、安心が許されるだろうとこう思うですね。
どうぞ。